「私」とは、本当に“私自身”なのか。
某誌は、失われた自分の発見を、
日常の社会的行為を通してでなく、
日常を脱した自然の中で回復しようと謳った。
「私は私」「わたし おんな」と
デパートやファッションメーカーが謳う“私”主張には、
自分の位置や存在の意味の判らなくなった女たちの、
いなおりにも似た臭いがちらつく。
「わたしのまま」の“私”とは一体誰か。
そのことへの問いかけなしに
“私であるから私なのだ”という“あるがまま”の許容は、
その私自身をも蝕むものであることを知らねばならない。
「私」もまた、私になろうとする日々の積み重ねの中からしか生まれない。
あらゆるものの中心になろうとするから、
「自我は、いとわしい」とパスカルは言った。
が、謳われる「私」たちは“私的な”と“個人的な”との区別を失っている。
そこには、いとわしいと思われるほどの自我もなく、
個の意識もない。
社会的に解決すべき事柄が、
私レベルにすりかえられる方式ももまたとみに多くなった。
だが、私次元の問題を社会的レベルの問題にすりかえることはできないし、社会的次元の問題を個人的問題にすりかえることもできない。
その二つの関係が「私」というひとことできわめて曖昧になる。
自分の存在の意味がはっきりしない。
だからもう一度自分に戻りたい。
周囲との遮断によって初めて自分が取り戻される。が、その自分が自分であることを確認する物差しが、同時に“人並み”であることに、多くの“私”たちは気づいていない。


うーん。古い文章のうえに、へたくそな文章なので、実に読みづらい。
言ってることも古い。
はっきり言って、今回はタイトルだけ。
書きたかったの。

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