ヒトノシュウセイ

2001年9月3日
ずっしりした黒布が、垂直の襞をつけて
垂れ下がっている。黒布の左右・上方は
闇に消えている。

これは舞台の幕です。幕があがったら、
すぐに踊り始めなさい。
たとえ、どんなことがあってもイライラ
してはいけません。

まだ幕があがる気配はない。

彼は、立脚と休脚とを交差させ、開始を待っている。
ときどき、疲れてどうしようもなくなると姿勢を
かえた。
いわば鏡に映ったときのように左右逆の姿勢を
とるのだ。

ぼんやりしてはいけない。いつ幕があがるかも
しれないじゃないか。幕が上がれば、全身全霊
をもって踊りを披露しなきゃいけない。
彼は満足した。
どのステップも正確に思い出せた。
巧く踊れる自信があった。

あいかわらず幕は上がらない。

最初の興奮は、次第に心の底からこみ上げる
腹立ちにかわっていった。
できることなら、舞台から駆けだして、どこか
で大声で苦情を言い、失望と怒りをぶちまけ、
抗議したかった。

しかし、どこへむかって走り出せばよいのか?

眼前にわずかに見える黒布だけが、彼に方向を
教えてくれるものだった。この場所を離れると、
闇の中で手探りすることになる。
そんなとき幕が開き、舞台が始まったら…

だめだ!そう想像しただけで彼は恥ずかしさで
熱くなった。
いや、待ち通さねば。

彼は、立脚と休脚とを交差させ立っていた。
ときどき、疲れてどうしようもなくなると、
彼はポーズをかえる。
もう何度目なのか分からないが、
鏡に映ったように左右が逆のポーズをとるのだ。

そのうち彼は、幕がいつあがるのか信じるのを
止めていた。
けれども、自分の居場所を離れられないことも
分かっていた。
出番が来て、踊りが成功しようと失敗しようと
そもそも出番など来なくても、
もはやどうでもよくなった。
すべてのステップも忘れてしまった。

目の前にはずっしりとした黒布があり、
その左右・上方は闇に消えている。

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